『俺は善人だ』
The Whole Town’s Talking
1935年、アメリカ、ジョン・フォード監督
物語は、真面目だけしか取り柄のない冴えないサラリーマンがある日、脱獄したギャングのボスとそっくりだったことから一躍時の人になり、悲喜劇が巻き起こる、というもの。この正反対の男二人を演じるのは、4大ギャングスターの一人であるエドワード・G・ロビンソンが演じている。
主人公のジョーンズは小説を書くのを楽しみにしている独身の小心者で、美人の同僚ウィルヘルミーナ・クラーク(ジーン・アーサー)に片思いをしているという愛すべき男といった印象で、一方のマニオンはまさにロビンソンのギャングスターとしてのイメージを定着させた『犯罪王リコ』(1931年)のリコを思わせる冷血な悪人といった感じである。この両者を一人二役でロビンソンが演じ分けているのだが、ジェームズ・キャグニー、ポール・ムニ、ジョージ・ラフトといったほかのギャングスター名優と比べて小男としての相貌も持ち合わせているロビンソンの特徴をうまくいかした設定であるといえる。映画はロビンソンの一人二役が見どころであるとともに、ジャンルとしてもコメディとサスペンスの要素をあわせ持った秀作である。
アルフレッド・ヒッチコックの『間違えられた男』(1956年)を思わせるが、物語の始まりからコメディータッチで進んでいく。J・G・カーペンターという会社に勤めるジョーンズは8年ものあいだ無遅刻無欠席で、酒も飲まず小説を書くのを楽しみという真面目な男。ある日、社長の気まぐれで、課長のもとにジョーンズを昇給させよ、そして経費削減のために遅刻した者をクビにせよというお達しが下される。だが、ジョーンズはたまたま遅刻をしてしまい、昇給どころかクビになりかける、というシチュエーション・コメディのような楽しさがある。
その後、会社ではジョーンズが脱獄中のマニオンと瓜二つであることで持ちきりに。ここからジョーンズとマニオンがどう絡んでいくのか? という興味で物語を引っ張っていくのだが、やり手社長のJ・G・カーペンターが新聞記者と結託し、ジョーンズの名でマニオンの伝記を連載することで会社の名前も宣伝するという計画を思いついたところから俄然おもしろくなってくる。ジョーンズが警察に誤認逮捕されたり、マニオンがジョーンズの下宿に押しかけて身分証明書を貸すよう脅したりと、コメディ的なバタバタを逆手にとったようなサスペンス展開もありつつ、新聞に掲載された「マニオンは臆病者だ」という文句に激怒したマニオンが脱獄の様子をジョーンズに伝え、共同執筆してしまう展開など、シチュエーションが生かされた物語はうまい。ウィルヘルミーナもしだいにジョーンズに思いを寄せていくのも微笑ましいが、無作法なキャラクターに設定されているところからスクリューボール・コメディの要素がもう少し色濃くあってもよかったかも、と思う。
ともあれ、ラストはそっくりであることを巧みに生かした胸をすくハッピーエンディングまでストーリーテリングも巧みで、一人二役の演技を披露したロビンソンの代表作とみなしたいくらいだ。監督のジョン・フォードも同年に『男の敵』『周遊する蒸気船』を撮っており、ノリに乗っていたときだったのだろう。なお脚本を担当した一人であるロバート・リスキンはフランク・キャプラのお抱え脚本家として1930年代に『一日だけの淑女』(1933年)、『或る夜の出来事』(1934年)、『オペラハット』(1936年)、『我が家の楽園』(1938年)などを手がけている。