『死刑にいたる病』 マジックワードとしてのサイコパスと児童虐待

『死刑にいたる病』
2022年、白石和彌監督

大学生の筧井雅也(岡田健史)は、理想とは大きく異なる悶々とした日々を送っていたが、あるとき手紙が届く。その送り主は、大勢の若者を残虐に殺害して死刑判決を受けている凶悪犯の榛村大和(阿部サダヲ)だった。榛村は罪を認めてはいるものの、最後の事件だけは冤罪なのだと主張しており、その犯人を筧井に探してほしいという。かつて筧井の地元でパン屋を営み、旧知の仲だった榛村のために事件の真相を独自に調査していく。

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……と、あらすじを記すと、なかなかおもしろそうな感じはするものの、どうもノレない。その理由はある程度ははっきりしていて、この映画(の作り手)がサイコパスな凶悪犯に惹かれすぎているということだろう。

レコードで優雅にクラシックを聴きながら、こだわりたっぷりにコーヒーを入れる毎朝のルーティン。その男は誰からも愛されていたが、裏の顔は……というのが榛村の素顔なのだが、あまりに典型的なというか、フィクションにおいて想定されうるサイコパス像に合致しすぎている。そして、こういうサイコパスな人物を魅力的なものとして描きすぎている。ゆえに、そこに共感できない観客は終始、置いてけぼりかもしれない。確たる根拠はないのだが、1990年代のアメリカ映画で多くありそうな感じもするが、ジョナサン・デミの『羊たちの沈黙』のイメージかもしれない。

ともあれ言いたいのは、ドラマ「ミステリと言う勿れ」のときにも思ったのだが、サイコパスと児童虐待というものがマジックワードとして使われすぎてはいないだろうか、ということ。社会におけるブラックボックスな存在を描くためのサイコパスと、社会の闇のようなものとして都合よく用いられる児童虐待の被害者。この問題をフィクションで都合よく登場させることの倫理というよりは、あまりに軽率に道具立てされて食傷気味になってしまう、ということにすぎないのだが。

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自身の歪んだ欲望を満たすために仮の姿としてパン屋を営むサイコパスといっても、あれだけの人気店をワンオペで営業し続けることの喜びとかはないわけではないだろう。そして、主人公ともいうべき筧井のFラン観というのもリアリティがあるのか疑問である。

映画のラストにしても、筧井が関わる人物がことごとく榛村の手のひらのうちにあったということでしかないだろう。それにしても、あれらのグロい描写を丁寧に描くことの意義ってなんなんだろうか。いろいろな意味で理解不能というか、むしろ評価している人に良さを教えてほしいという気持ちだ。

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