『今夜、ロマンス劇場で』ハッピーエンドには無理がある?

『今夜、ロマンス劇場で』
2018年、日本、武内英樹監督

しばしば指摘されるように、本作ではウディ・アレンの『カイロの紫のバラ』を思わせるような、スクリーンのなかの登場人物が現実世界へと飛び出してくることから起こるラブロマンスが描かれる。いろいろと設定の段階からツッコミが入りそうではあるのだが、ある見逃せない大きな問題があることを考えると、そうした細部の欠点を指摘することはたんに重箱の隅をほじくるようなことにすぎないかもしれない。

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物語は1960年、映画監督を目指す青年(坂口健太郎)のもとに、あるときスクリーンで目にして恋に落ちた映画のヒロイン(綾瀬はるか)が彼のもとにやってくる。映画のなかのお姫さまというキャラクターそのままに、白黒映画の世界から抜け出してきた天真爛漫な彼女は、カラフルな世界に胸をときめかせる。

この物語のテーマは、劇中のセリフとしてもストレートに語られる「手を触れることのできない人を愛し続けることができるのか?」という命題である。現実的にはあまりない問いかけだが、現代ではオタクと呼ばれる人たちには切実な問題かもしれず、主題としては『her/世界でひとつの彼女』と重なるところもあり、もしかすると今後よりシリアスな問題になってくるかもしれない。

ともあれ、この映画は最期のときを迎えようとしている彼が、この物語を映画の脚本として完成させようとしている地点から語られことで、「それでも愛することができる」というハッピーエンディングで終わる。だが、ここで看過されていることがある。もちろん身体的な接触ということでいうと、セックスのことである。先の問いは換言すれば、セックスなしでも夫婦として添い遂げられるか、という難問になるはずだ。この問題を無視しており、そのうえで成立する美談であるという点で、この映画のウィークポイントといえるだろう。仮に主人公がそれでも愛することができるというのなら、彼が最期を迎えるまでの「辛抱」こそが重要なはずで、そこをダイジェスト的にあっさりと語られるのは、もっとも重要な要素を語り落としてしまっていることになる。やはり『カイロの紫のバラ』のように、これはバッドエンディングで終わるべきで、不可能性の問題として観客に委ねるべきなのだと思う。

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ちなみに『カイロの紫のバラ』というのは、メアリ・アン・ドーンが『欲望への欲望』で批判したように、フェミニズム理論とは相性の悪い作品である。この映画のヒロイン(ミア・ファロー)というのは、いわゆる男性が想起するようなフィクションに夢中になる典型的な女性観客の象徴であり、男性中心的な映画の作り手たちは女性への偏見に満ちた「女性映画」を作り出してきたのである、というわけだ。とりあえず『今夜、ロマンス劇場で』は、このようなフェミニズム批判を逃れはするものの、細部についても粗の目立つ作品であることは間違いない。

批判するばかりでは芸がないので、代わりに代替案を提案してみよう。まず、主人公が通うロマンス劇場でヒロインを初めて目にするきっかけとなる劇中劇についてだが、これは映画館主がほったらかしていたフィルムとするのではなく、館主が大事に保存していたものとするのがよいだろう。で、映画史的に重要なフィルムとしてフィルムセンターなどに寄贈することになった、とか。そもそもこの劇中劇が忘れされた過去の映画として扱われているのだが、いわゆる『狸御殿』シリーズに連なるものだと考えられるし、『ローマの休日』のパロディなんかもある作品なので、大衆には忘れ去られても資料としては重要な作品であるのでは? と思う。

そして、これはハッピーエンディング問題とも関連するが、映画監督を目指していた主人公が映画会社が倒産したあと、映画とどう関わっていったか? ということが語られないのも手落ちだ。主人公がこれほどまでに愛し、ヒロインと運命の出会いをもたらすことになる映画から離れてしまったというのは、やはり無理がある。とすれば、やはりバッドエンディングにして、のちに監督となった主人公が手がけることになった映画のなかでこの恋を成就させるとかのほうがしっくりくるのではないか。もちろんそれがおもしろいかはわからない。だが、キャストや演出は悪くない気がするので、こっちのほうがストレートだし、感動的な気もする。

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