『暗黒の恐怖』
Panic in the Streets
1950年、アメリカ、エリア・カザン監督
物語はニューオリンズの波止場で何者かに殺害された身元不明の射殺死体が発見されるところから始まる。検死の結果、被害者が肺ペストに罹っていたことが判明し、衛生局の博士クリントン・リード(リチャード・ウィドマーク)は感染拡大を抑止すべく死体を焼却するよう指示。ただちに関係者も隔離するも、感染の疑いがある犯人が捕まっていない。リードはニューオリンズ市警の刑事トム・ウォレン(ポール・ダグラス)とともに被害者の足取りを追うが、腰が重い警察に業を煮やして自ら行動を起こすことになる。
疫病が引き起こすパニックと捜査劇が組み合わされ、上質なサスペンス・アクションに仕上がっている。このあらすじを読むだけもおもしろそうだと予感させるのだが、実際に原作者のエドワード&エドナ・アンハルトは第23回アカデミー賞では原案賞を獲得しており、この設定の妙味が高い評価を受けたようだ。肺ペストというのは空気感染するうえ、仮に発病した犯人は遠方に逃走してしまうと被害はアメリカ全土へと拡大してしまう可能性がある。発症までのタイムリミットが48時間であるという点はウォルター・ヒルの『48時間』(1982年)を思わせる。
リードは衛生局の人間で、いわゆる医療従事者である。感染拡大の恐怖をもっとも感じているのは彼であり、感染した遺体を処理した全員に予防接種を受けさせる。だが、周囲との温度差に苛立ちを感じ始め、とりわけ刑事のウォレンの対応の遅さに角質も芽生えてしまい、自ら捜査を進めてしまう。このあたりの序盤の描写は、パンデミックの恐怖を身を以て感じた現在からすると、リードに大きく感情移入するはずだ。そして新聞社の記者をしているという男がコソコソと入り込み、ついには耳にした真相を公表するのが義務だと脅す。だが、公になれば国民のパニックは計り知れず、犯人逃走を助長させてしまう。このあたりの攻防はおもしろく、正義を主張するメディアの役割というのも現在の状況に置き換えて考えてみることもできるだろう。
その後、真相を追うべく聞き込みをするのだが、事件と関わることや逃亡する犯人のブラッキー(ジャック・パランス)を恐れて、感染したと思しき被害者を事件当日に目撃したと警察に語りたがらない証言者なども現れ、事実へ近づいているという感触をリードは得られない。こうした展開から、本当に怖いのはウイルスそのものではなく、人間が持ち合わせている保身や対面というものだと思わさせる。
なかなか解決へとまっすぐに向かえないリードを救うのが、はじめは協力的でないように見えた刑事のウォレンである。付きまとうマスコミを対処したり、捜査のやり方を経験を持って知っているのは、やはり刑事なのだ。リードがウォレンの見かけによらない頼りがいのある男だと見直し、バディとして認め合っていく過程もおもしろい。
また、リードを家で子どもとともに待つナンシー(バーバラ・ベル・ゲデス)も重要な役割を果たしていると見ることができる。彼女は単なるサスペンスフルな展開の息抜きとして登場するのではない。医療従事者でもなく警察でもなく、銃後で夫を支えることしかできない彼女は、いわば現在の状況でいう多くの人々の象徴なのだ。彼女は衛生局員である自分に自信を見出せない夫の勇気と仕事ぶりを賞賛し、活力を与える姿は私たちの多くが見習うべきものなのだといえる。
ラストに至る、犯人を追うアクションの展開も無駄がない。やはり設定の巧みさもあるが、カザンの演出も磐石といったところか。ちなみに映画は1950年に公開されているので、カザンが『欲望という名の電車』(1951年)を監督する前年である。そしてアメリカ下院非米活動委員会に呼び出され、11名の仲間たちを共産主義者として委員会に突き出したことで不名誉を被る直前のことでもある。
また、犯人役のジャック・パランスはこれで映画デビューを果たし、その後は『突然の恐怖』(1952年)、『シェーン』(1953年)でアカデミー賞助演男優賞にノミネート。ヨーロッパでも活躍した後、1991年の『シティ・スリッカーズ』で念願のアカデミー助演男優賞を受賞している。ヒロイックな主人公リードを演じたリチャード・ウィドマークは、1947年のヘンリー・ハサウェイの『死の接吻』でアカデミー助演男優賞候補にノミネートされ、スタンリー・クレイマーの『ニュールンベルグ裁判』(1961年)が代表作となった。パランスは2000年代、ウィドマークは1990年代まで活躍するなど、どちらも息の長い俳優だった。
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