『ルース・エドガー』
Luce
2019年、アメリカ、ジュリアス・オナー監督
『ルース・エドガー』は「完璧な優等生か? 恐ろしい怪物か?」というキャッチコピーがつけられているように、この映画は主人公である一人の高校生の「本性」をめぐって物語が展開していく。陸上部に所属するスポーツマンにして成績優秀、そして討論部の代表として全米大会に出場したこともある模範的な優等生であるルース(ケルヴィン・ハリソン・Jr)は、学校の同級生や大人にも分け隔てなく接する篤実な性格で、誰からも愛されるような高校生である。7歳までエリトリアで暮らし、アフリカ系の移民としてアメリカに渡った彼は、白人の養父母のもとで愛情たっぷりに育てられたことで凄惨なトラウマを克服。若きバラク・オバマの再来とも目されるような人生を歩んでいた。
監督自身が明言しているように、このルースにはオバマやウィル・スミスのイメージがモチーフとして重ねられているという。タフでクールで知的な黒人。現代のアメリカン・ドリームを体現するような人物として、ルースは人種のサラダボウルであるアメリカの地方都市でみんなの希望の星となっている。ちなみに、この映画の原作となったのは同名の舞台で、この当時はオバマ政権下にあった。その後、トランプが大統領に就任するということで、こうした有色人種への視線やイメージというのも新たな局面を迎えていると思われるが、この映画の時代はオバマ時代を設定にとっているように思われる。
バージニア州アーリントンの高校に通うルースは、母エイミー(ナオミ・ワッツ)と父ピーター(ティム・ロス)の両親のもとで「完璧な優等生」としての日々を送り、まもなく迎える討論会でのスピーチの練習を進めていた。そんな順風満帆な日々を送っていたある日、エイミーは歴史教師ハリエット・ウィルソン(オクタヴィア・スペンサー)から学校へ呼び出しを受ける。ルースが歴史の授業で課された課題のレポートで、アルジェリア独立運動の革命家フランツ・ファノンの過激な思想について書いたのだという。さらに問題視したウィルソンはルースのロッカーを確認し、違法所持の花火を発見したのだと告げる。ここで私たちは映画の冒頭に、顔の見えない誰かの手が花火の入ってるであろう紙袋をロッカーに入れる場面が置かれていたことを思い出す。
息子のプライバシーを無視したウィルソンに反発するエイミーは夫のピーターに相談するが、彼は正面から取り合わない。ルースとの夕食の席でその話題が及び、ルースとウィルソンの間で微妙な不和があることがわかる。ルースと同じくアフリカ系アメリカ人で教育熱心なウィルソンは、生徒たちにレッテルを貼り、自分の政治的な主張に利用しているのだという。ルースいわく「僕に与えられた役は“悲劇を乗り越えた黒人”で“アメリカの良心の象徴”だ。責任を感じて重荷だ」ということだった。ここからルースとウィルソンの緊張関係の高まりに乗じて、彼が以前交際していたアジア系の同級生ステファニー(アンドレア・バング)たちとの関係なども巻き込んでルースの正体をめぐる謎が深まっていく。
この映画を見る者はルースが果たして何者なのか? 花火を所持していたのは本当にルースなのか? という疑問を抱えながら、その真相に向けてサスペンスを高めていくことになる。ルースのまわりには霧がかかったような状況で、その真の姿をはっきりと見極めることができない。その理由としては、視点人物の曖昧さがあるだろう。物語がルースの視点からもウィルソンの視点からも語られず、父ピーターも常にルースの側に立とうとしている(というより教育のために踏み込もうとしないようにも見える)。そのなかで唯一、曖昧な視点を観客と共有するのが母エイミーである。彼女こそルースの本当の姿を知りたいと願い、彼の周囲の人々とのコンタクトを取っていく。
ルースが抱える苦悩とは、まさにウィルソンへの反発に表現されるようにマイノリティに与えられた役割=ステレオタイプへの葛藤だ。人々のマイノリティへの意識は刷新され続けたとしても、同時に差別の構造だけは更新され続けるという状況なのだといえる。物語の始まりから、私たちはルースを「理想的な優等生」であると認識することになるが、これこそがその構造の証左である。終盤にかけてルースは自身に押し付けられたステレオタイプを逆手に取り、ウィルソンへの完膚なきまでの復讐を遂げていくのだが、その過程も胸をすくものではもちろんない。彼女は彼女でアメリカに生まれ育ったアフリカ系アメリカ人であることの葛藤があり、妹は精神的な病気を抱えているという状況だ。単なるステレオタイプを押し付ける教師への復讐というストーリーではないし、ハッピーエンドへの入り口も用意されてはいない。
そして、この映画が描いているものに、権力と特権という問題があるだろう。教師と学生という権力構造をはじめ、ルースは白人を両親に持つ有色人種という特権を持っている。そうした繊細で日常では不可視の問題を取り扱っているという意味でも、物語はきわめて複雑で曖昧だ。語りの構造自体はサスペンス映画を思わせるものなのだが、登場人物と観客がともに一つの答えへとたどり着くというカタルシをも得ることはできない。挑戦的な作品であるといえるし、今こそ見るべき重要な作品である理由はここにある。
同時にきわめてアメリカ的な物語であり、日本では決して作られることのないシリアスな映画であるだろう。テーマはもちろんのこと、このような映画が日本で作られない理由としては、やはり当事者性の問題があるだろう。監督のジュリアス・オナーは1983年、ナイジェリア・ベヌエ州マクルディ生まれ。外交官の父親とともに渡米し、まさに『ルース・エドガー』の舞台となったバージニア州アーリントンの高校を卒業したあとでウェスリアン大学で演劇の学士号、ニューヨーク大学ティッシュ芸術学校で美術の修士号を取得している。というようにルースを重なることの多い出自の人物である。LGBTQなどのマイノリティをテーマにした映画が作られるだけで賞賛を浴びる日本の状況を考えると、この部分では日本はまだまだ幼いといわざるをえないだろう。
ちなみにオナーは監督作として『トラブルメーカー』『クローバーフィールド・パラドックス』などがある。ルースを演じたケルヴィン・ハリソン・Jrは『それでも夜は明ける』での端役で俳優デビューを果たし、2017年の『イット・カムズ・アット・ナイト』で話題を呼んだ。『ルース・エドガー』と同じ年の『WAVES/ウェイブス』(2019)でも主演を張っており、もっとも注目される俳優の一人である。
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