『かくも長き不在』
Une aussi longue absence
1961年、フランス、アンリ・コルピ監督
第2次世界大戦後、パリ郊外でカフェを営むテレーズ・ラングロワ(アリダ・ヴァリ)はある日、店の前を歌を歌いながら通りすがる浮浪者(ジョルジュ・ウィルソン)に目を止める。その男は16年前、ゲシュタポにより強制連行されて行方不明になった夫アルベールと瓜二つだったのだ。彼女は記憶を失ってしまった彼に寄り添い、過去を思い出させようと努力を続けるのだが……。
第14回カンヌ国際映画祭でパルムドール受賞だが、日本では長くDVD化を待望されていた作品である。脚本はピーター・ブルックの『雨のしのび逢い』(1960年)で同じマルグリット・デュラスとジェラール・ジャルロ。監督のアンリ・コルピはこの作品以外では長編映画はあまり撮っておらず、テレビ作品などに携わっていたようだ。
物語の舞台となるのはテレーズのカフェが中心で、あとは彼女の夫とよく似たホームレスが暮らす河川敷のあばら家くらいか。季節は夏で、バカンスのため街から人がいなくなり、寂しさを感じさせるパリ郊外の雰囲気がいい。避暑地の喧騒を描くジャック・タチの『ぼくの伯父さんの休暇』(1952年)と好対照な作品である。
この映画で描かれるのは、記憶とその不確実さである。テレーズが出会ったホームレスの男がアルベールであるかは、男が記憶を取り戻すまではわからない。死んだと諦めていた夫が帰ってきたかもしれないという喜びと困惑、そして本当に彼であるのか確かでない不安。そういったものがアリダ・ヴァリの演技からも伝わってくるのだが、こうしたあくまで個人的で、もしかすると観念的になりかねない主題を描くことは一筋縄にはいかない。たとえば過去の光景をフラッシュバックさせながら現在と対比させながら失われた記憶の儚さを描くこともできるし、『エターナル・サンシャイン』(2004年)のようにSF仕掛けにしてもよいだろう。
だが、『かくも長き不在』ではテレーズと夫にどんな過去があったのかは明かされず、男が本当に彼女の夫なのかも知ることはできない。過去の光景が登場しないために、男がアルベールと「似ている」のかどうかもわからない。そんななか、テレーズは男をアルベールの叔母と甥がいるカフェに招き、店内に夫の好きなオペラの曲をかけて、男に聞こえるように叔母たちとかつて住んでいた場所や家族の話などの思い出話をする。このとき観客は初めてテレーズやアルベールの過去について知るのである。この再現することができず、語られるしかない記憶という不確実さのテーマが浮かび上がるのだ。どんな光景もフィクションとして語りうる映画というメディアにおいて、こうした誠実さが何よりこの物語を感動的にしている。
その後、二人がカフェで食事をする際に、男がアルベールが好きだったチーズの味を覚えていたことで、男が夫だとテレーズは希望を抱く。記憶を失った頃の様子を聞いたり、なんとか記憶を取り戻そうと試みるが、男は医者から記憶が戻ることはないと告げられたことを明かし、テレーズは男の後頭部に収容所で受けたであろう生々しい脳手術の痕を目にする。彼女も男も、そしてもちろん観客も真相はわかりえない。テレーズは夫とよく歌った曲のレコードをかけ、感情を抑えて男とダンスする。曲が終わり、涙を流すテレーズと男は握手を交わして店を出る。
果たして男は彼女の夫なのか? そのことは映画が終わっても宙づりにされたままだ。この映画が描くのはその問いへの答えではない。真実を知るためには、私たちの記憶はあまりにも頼りないものなのだという、切なくも誠実な姿勢なのである。
コメント