『恋は光』
2022年、小林啓一監督
恋をしている女性が光って見える特異体質を持つ大学生の西条(神尾楓珠)は、恋愛を遠ざけて生きてきた。だが、あるとき大学で「恋というものを知りたい」という東雲(平祐奈)に一目ぼれしたことから、彼女と恋の定義について意見を交わす交換日記を始めることに。そこに、長らく彼に片思いしている幼なじみの北代(西野七瀬)が心中穏やかならぬと加わり、さらには他人の恋人を奪う恋愛ばかりをしてきた宿木(馬場ふみか)も西条に猛アタックを開始する。やがて4人はそれぞれに恋の定義を考え始めるのだが……。
この映画は同名のコミックが原作らしく、どうやらそちらはラストの展開で少し「炎上」というか、その結末(つまり主人公の恋の相手が誰か、という問題)はファンには納得のいかないものだったようだ。
恋する女性が光ってみえる主人公にとって、なぜだか幼馴染の女性だけはその兆候がない。とくれば、主人公にとって彼女が光って見えない理由が何かあり、その理由をあれこれして突き止めた結果として、おのずと彼女が「運命の相手」となって物語は幕を閉じるだろう……というのがロマンチックコメディとしての正しい結末だろう。たしかに、映画では実際にそのような展開を迎える。だが、原作はそうではなかったために、物議を醸したらしい。その意味で、原作の反ロマンチックコメディ的な結末が、正当なロマコメ的なオチに軌道修正されたのだといえる。
とはいえ、そのことは大きな問題ではないし、ここでは映画についてみていきたい。映画じたいはすごくヒットしているわけでもないし、おそらく全国で100館ほどの劇場公開だから、何か否定的なことをいう必要もないのだが、SNSではけっこうよい評価を受けている印象だ。そもそも、この映画について情報を得て見に行こうという観客にとっては、この映画の内容は安定して楽しめるものであることは間違いない。だが、何かが引っかかる。それは何なのか?
原作は青年誌に連載されたものらしいが、基本的な読者は男性女性を問わず、全般ということになるだろうか(「ハコヅメ」が青年誌に連載されているようなものか)。だが、映画を見たときに、これは女性が見るものだろうと、ごく当然のごとく思った。性別で考えるのはよくないので、もっと端的にいうと、主人公の男性を恋愛対象か憧れを抱く人がターゲットだと感じたのだ。というのも、この作品には基本的に主人公の男性と、その周囲で彼をとりまく3人の女性しか登場しない。それ以外にも出てくることは出てくるが、ほぼ大筋のストーリーに絡むことはない。
であるからして『恋は光』の印象は、主人公のような恋を知らないインテリで不器用な男性が好きな作者が作ったストーリーで、もちろん登場する3人の女性というのは作者の分身であり、彼女たちが脳内会議を繰り広げるというものである。恋とは何かを哲学的に議論するというが、この映画の宣伝文句だが、印象としてはなんとも「幼い」と思った。「幼い」ことが悪いわけではもちろんなく、ただ大学生という設定なので、どうも乗れない。高校生が見るのならよいかもしれないが、登場人物たち以上の年齢の者は厳しいものがある気がする。
恋とは何か? を考えることはよいと思う。そこから発生する群像劇も楽しそうだ。だが、ここに登場する主人公のほかに男性は登場しない。主人公が誰を選ぶかということだけが問題であり、彼は3人の女性から愛される一方である。そして、なぜ恋する「女性」が見えるのか? 彼の性的対象が女性だからだとしても、そうなると幼馴染が光らない理由に説得力がない。
言ってしまえば、この主人公には性欲があるのか、という疑問もある。この問題に踏み込まないとダメだとは決して思わないが、彼に何も障害がなければ、もう誰を選ぼうがどうでもよくないか。というか、ストーリー的には光って見える特異体質を乗り越え、恋は何かと考えることさえ放棄して、幼馴染を選ぶというしかないではないか。そうなると、ただ気づくまでの過程を描くことになるのだが、同じく光って見える体質を持つ女子高校生と出会うのだが、そのへんの流れもどのような効果を生んでいるのか疑問だ。
つまり、彼は恋とは何かを考えるが、性については悩みはない。というよりも、そういう葛藤についてはまったく持ち合わせておらず、それゆえに無害な男性であるという点で、理想的な恋愛対象なのだ。この映画の世界は、現実にある複雑な問題を回避することによって成り立っている。その世界には「有害な男性性」など存在しないし、絶対安全かつ安心な多様性のまったくない世界なのだ。それはそれでよいと思う。だが、その程度の映画は対象年齢というものがあるだろうということだ。
蛇足だが、恋をする女性が光って見える、という性質を聞いて、漫画「アフロ田中」をふと連想した。アフロ頭の平凡な男、田中広を主人公とした作品で、基本的に現実の時間と連関して進むタイプの漫画で、連載期間で登場人物が年齢を重ねる。震災時にはボランティアで東北へ行き、コロナではオンラインで飲み会をする……とか。そのなかで、ときおりある読み切り的なエピソードがあり、たいていは非現実的なショートショートのような話が展開されるのだが、思い出したのは、道ゆく人々の頭上に数字が浮かんでおり、それが最後にセックスをしてから何時間が経過したかを示している、ということに気づく、というものだ。これは田中の目にしか見えておらず、仲よさげなカップル同士の数字が異なったりするとか、清楚な高校生に数時間前とでて驚くなど、総じてそういうくだらないものだ。
だが、ここには性欲の問題がある。というか、性欲なのかどうかを抜きにして、恋愛など語れないと思う。これは愛だよと言って自己弁護することでハラスメントなどは生まれるのではないか? この映画はそうしたものを排除して成り立つ「普通」の人たちによる理想郷なのだろう。
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