「カイエ・デュ・シネマ」の同人たちが打ち出した「作家主義政策」の端緒は、フランソワ・トリュフォーが1954年に同誌上で発表した「フランス映画のある種の傾向」であるとされている。その記事の発表から3年後のアール誌にトリュフォーはこう記す。「監督はあるスタイルを有しており、それは彼のすべての映画のうちに見出すことができる」。ここでのトリュフォーの考える「作家性」とは、作品に対して「作家」が有しているその「スタイル」であるとみなすことができるだろう。とするならば、ひとりの監督に「作家性」を見出そうとする試みは、得てして作品のなかに見出される「スタイル」への分析に費やされるのではないだろうか。トリュフォーが、この「作家主義政策」においてきわめて強くクロース・アップすることとなったアルフレッド・ヒッチコックへのインタビュー(『映画術』)は、ヒッチコックの作品のなかに見出される「スタイル」に向けられたものだったといってよいだろう。監督の作品に見出される「スタイル」こそが、その監督を「作家」とするのではないか。それでは、なぜアルフレッド・ヒッチコックという「作家」が、ヌーヴェル・ヴァーグの同人たちによる「作家主義政策」の中心的な存在となったのか。その「スタイル」を考察するにあたって、いくつかの先行研究を参照してみよう。
三浦哲哉は、その著書『サスペンス映画史』のなかで、ヒッチコック自身による「主観的サスペンス」の定義や、ボニツェルの「ヒッチコック的サスペンス」などを援用しながら、ヒッチコック映画の特徴が「予示」と「顕示」にあると指摘する。ヒッチコックが述べるころの「主観的サスペンス」とは、グリフィス的メロドラマに見られる、チェイス・シークエンスのような「客観的サスペンス」と対比されるもので、「光景の自然を転覆するものが隠されているということ、あるいは隠されているという暗示に観客が気づいていること」によって緊張とその持続をもたらすような「朗らかな日常をサスペンス化する技術」である。つまり、ヒッチコック的サスペンスとは、非日常が日常を覆すような世界ではなく、犯罪とつねに共存した日常をひとつの疑惑として提示するような世界であるのだ。日常は不自由なものとしてあり、絶えず「疑惑の影」がつきまとう。そのとき、観客は登場人物が知らないことも知って(見て)おり、それにより観客の心に疑念が浮上し、日常がサスペンス状態へと宙吊りにされる。三浦はさらに、そこに「隠すべきものは逆に晒されなければならないという論理」があるという。登場人物たちは、彼らが犯罪者であれ、市井の人々であれ、何かしらの形で犯罪に巻き込まれ、それを隠そうとすればするほどに自分への疑いが強まってしまうような状況下に置かれ、公共空間のなかで自分の潔白を証明する手立てもないままに生活を営むほかない。その点で、表層は穏やかに日常のように見えるが、その影には犯罪が隠れているというヒッチコック的サスペンスが形作られる。こうした論理は劇場でこそ発揮されるだろう。三浦は、劇場は「虚構の論理にしたがって振る舞うようにひとが期待される」ような空間だからである。『引き裂かれたカーテン』(1966年)での逃走(ソ連からアメリカへの逃げ切り)シーンは、ポール・ニューマンが劇場のなかで虚構の火事を発生させ、空間を混乱に巻き込むためになされたものだが、このシーンはその逆説的な論理を提示する一例であるといえるだろう。
そして、そのサスペンスの手法としての「予示」が観客にあらかじめ起こることを想起させる。三浦は「予示」の要素を五つ(説話的/場所の反復/[犯罪と結びついた]オブジェ=対象/主題論的/間テキスト的)に分類する。たとえば加藤幹郎は、この「隠すべきものは逆に晒さなければならないという論理」を、「外見と内実の乖離」という言葉に換言し、スペクタクルと物語の齟齬をヒッチコック映画の「本質」であると論じ、また、『サイコ』(1960年)をめぐる精緻なテクスト分析は、「予示」についての効用を明らかにしたのだった。加藤の『サイコ』のなかに指摘する「予示」は、主として「主題論的」なものと分類することができるかもしれないが、いくつかの「予示」の効果が重なりあい、形式化された記憶のなかで反響し合うだろう。こうした「予示」は、稠密なネットワークを映画のテクストのなかにつくりあげることになる。張り巡らされたネットワークは観客であるわれわれを、継起的な物語の枠組みから逸脱して、過去/現在/未来とはまた別の、もうひとつべつの物語の項のなかに観客を置くことになる。観客は、起こる前からそれをもう知っており、起こったあとも、それを知っていたのにもかかわらず驚くことになるのだ。ヒッチコックの映画がいつまでもその「面白さ」を保証し続けるのは、こうしたサスペンス的な効果(出来事が予告されていたのにもかかわらず、その既知であったはずの出来事が起こりつつある[それが起こるまでの]時間にサスペンスに宙づりにされ、起こったときには、驚かずにはいられない)に拠るものなのだ。
ここまで、ヒッチコック作品の「スタイル」を簡単に把握してきたつもりであるが、そのときジャン=リュック・ゴダールが『間違えられた男』(1956年)について行った表層的な効果やカットの《分身》への指摘はきわめて明晰であるといえるだろう。ゴダールは、「映画とその分身」と名づけたその文章のなかで、カットや対象が「分身(=双数)」となることを分析するのだが、ここで重要なのは、ゴダールの「批評家」としての確かさを認めること以上に、これらの分析によって欠かすことのできない要素である「観客」の存在を指摘したことにある。もちろん、映画において「観客」という存在が不可欠なものであるというのは、近年の「初期映画」に対する研究によってもさらに別の角度からますますクロースアップされていることではあるが、ここでの「観客」とは彼らが「作者」の分身となるような存在であることは見逃すことはできないだろう。つまり、ゴダールの分析においては、その視線は作品を鑑賞する地点から、映画内の各カットの分析、つまり「作者」の意図を読むことへとその地点へと移される。観客はそのサスペンスに揺られながらも、同時に「作者」の位置に立ち映画を観賞することになる。われわれが、ヒッチコック的なサスペンスを体感するとき、その「予示」に気づかず、登場人物とともにその事件や出来事に巻き込まれる必要はない。その点で、ヒッチコックの述べる「主観的サスペンス」というものが、従来の主人公の視点に立つという意味での「主観的サスペンス」とは異なるのだ。観客は、予告されたことを知り、その予告された出来事が起こるまでの時間、サスペンス状態に陥る。
しかしながら、われわれが注意すべきことは、「作者」=観客という図式がヒッチコック映画のなかで成立するとしても、それは「作者」の思惑や意図を観客がはっきりと理解する、言い換えるならば「作者」と観客の理解/解釈が一致する、その必要はないということだ。『映画術』におけるトリュフォーの解釈とヒッチコックの意図は一致することが多いように見受けられるわけだが、それはトリュフォーの解釈が完全に「作者」であるヒッチコックの考えた通りであるというわけではないのだ。重要なのは、すべての観客がそのように「予示」のような方法に敏感になり、作品のなかに織り込まれたネットワークのなかで映画を観ること、そのことを加藤などは「理想的な観客」と呼んだのではなかったか。スクリーンの前に座り、一本の映画を観賞する観客であるわれわれが、作品の内部に置かれた継起的な物語を逸脱する「染み」に出会うとき、そこでは物語がつづくあいだ、その存在によって意識が宙づりにされ、「サスペンス」の只中にいることになる。
ここで、もう一度、ヒッチコックがヌーヴェル・ヴァーグの同人たちの「作家主義政策」の代表格となったことを考えてみたいと思う。ヒッチコックの作品群の「スタイル」を見出そうとするとき、それは「観客」を「作者」の位置に置くことであるといえるだろう。とするならば、作品は鑑賞されるたび、鑑賞され続けるほどに、その「作者」を増やしつづけることになるだろう。トリュフォーがひとつの解釈を示しえたとするならば、そういった解釈も、観客それぞれによって稠密なネットワークとなってゆくだろう。そのとき、先に援用した加藤の著作での、『裏窓』をめぐる、トリュフォーを含めすべての観客が殺人事件があったと解釈してしまうことに疑問を投げかけることによって、その解釈のネットワークはより輻輳されることとなるだろう。ヒッチコックを確固たる「スタイル」をもった「作者」であるとして擁護するときに、そのヒッチコックが「作者」をめぐる映画の作り手であるという、ひとつねじれた構造があることに気づくのだ。ヒッチコックの作品は、限りない解釈を提供することができ、そして観客が継起的な物語を逸脱するような感覚にとらわれるとき、観客は自身が「作者」の位置にいることに(無意識的にであれ)気がつくのだ。そして、それがヒッチコックの「作家性」であるといえる。ヒッチコックを「作家」として擁護しつつ、その作品の「スタイル」は、ひとつの作品のテクストに「作家」を幾重にも張り巡らすことである。
「作家主義政策」の欠点やそれに対する批判は枚挙にいとまがないが、その「政策」の性質がどういうものであれ、まず分析/解釈されるのは「作家」の作品であるのだ。そして、ヒッチコックがこの「政策」の代表的存在であるというのはきわめて象徴的なことだろう。トリュフォーやゴダールなどが、ヒッチコックの「スタイル」に対してどれほど意識的であったのかは定かではないのだが、観客を「作者」の地点に置くという、きわめて(批評的な視点を喚起するという)批評的な「作家性」を、ヌーヴェル・ヴァーグの「作家」たちが(結果的にであれ)推し進めていったということは、絶えず意識されるべきことだろうと思う。ひとえに「作者」(「作家性を持った監督」)擁護の政策であると、現在のわれわれが「作家主義政策」を切り捨ててしまうのではなく、そこから学ぶことがあるとするならば、「作家」というものはなにかを問いつづけ、その作品のもつ、いくつもの特質を真摯に批評することであるといえるだろう。
参考文献
谷昌親「作家主義とプロデュースをめぐる覚書き」、ユリイカ臨時増刊・総特集「ヌーヴェル・ヴァーグ30 年」青土社、1989年
三浦哲哉『サスペンス映画史』みすず書房、2012年
加藤幹郎『ヒッチコック『裏窓』ミステリの映画学』みすず書房、2005年
同『映画とは何か』みすず書房、2001年
ジャン=リュック・ゴダール「映画とその分身 アルフレッド・ヒッチコック『間違えられた男』」、『ゴダール全評論・全発言Ⅰ』筑摩書房、1998 年
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