『ゴーストワールド』
Ghost World
2001年、アメリカ、テリー・ツワイゴフ監督
“おしゃれでキッチュでとびきり切ない低体温系青春ムービー”
ソーラ・バーチとスカーレット・ヨハンソンが主演し、ダニエル・クロウズのコミックを原作とした『ゴーストワールド』には、このような解説が付けられている。このフレーズがどうであるかは置いといて、確かに『ゴーストワールド』には、全編を通してスタイリッシュな感じを持ちつつも、どこか垢抜けない「ダサさ」があり、悲哀に満ちている。
『ゴーストワールド』のなかで主人公イーニド(ソーラ・バーチ)のファッションはくるくる変化する。「自分は誰であるか」という葛藤のように。
彼女はごくごく一般的な若者や世の大人に対して批判を繰り返すものの、彼女自身が何者であるか、もしくはなりたいかという問いに対しては、正面から向き合うことはない。そして、かつての思い出のぬいぐるみや服は手放すことができずにいる。親友のレベッカ(スカーレット・ヨハンソン)も彼女よりもうまく社会に適応し職を見つけてしまい、イーニドとレベッカは高校時代のように理由もなくただ一緒に怠惰な時間を過ごすことのできる関係ではなくなってゆく。さらに、ある種の感情移入の対象であるシーモア(スティーヴ・ブシェミ)が一人の女性とうまくいくと自分の居場所を失ってしまう。彼女の一番の夢である「どこかに旅立つ」というのも、「どこへ」かはの答えは見つからず、何がしたいかの問いも、刹那的なセックスによって流されてしまう。
それに象徴されるのは、彼女が美術の補修を受けなくては卒業を認められず、そして「自己表現」というテーマの作品が講師から評価されるも、作品が彼女の内部から生まれ出たものではなく、かつ親から多くの苦情が寄せられたということで取り外されてしまい、彼女の美術学校への推薦も取り消されることだろう。彼女はモラトリアムから“排除”されてしまう。
彼女は、ラストシーンでバスに乗り込む。彼女は自らが何者かという答えを放棄し、“ノーマン(NO MAN)”となることを選択する。彼女がバスに乗り込むのはリアルから離れた永遠のモラトリアムへの旅立ちである。バスはどこへ向かったか。もしくはバスはどこへも向かわなかったのか。
レベッカやシーモアを一種の通過儀礼とみなすなら、彼女が社会というもののつまらなさを味わうには十分であろう。彼女がバスを降りる先がモラトリアムの終点である。モラトリアムとは、バスのような、いつ終点に着くのかわからない曖昧なものだが、降りるバス停がないのも非常にこわいものである。
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