『ガタカ』
Gattaca
1997年、アンドリュー・ニコル監督
『ガタカ』が舞台とするのは、遺伝子操作によって生まれた「適正者」こそが優遇され、自然出産で誕生した「不適正者」が劣等な遺伝子とみなされる近未来である。この設定からも明らかなように、これは現実世界における格差や差別のメタファーのようなものとして描かれている。その意味で、現実に存在する事柄をモチーフにしながら、劇中の物語世界も現代社会の写し絵のようなものとして解釈可能なものであり、同じくアンドリュー・ニコルが脚本を担当した翌年公開の『トゥルーマン・ショー』(1998年)や後年の『TIME/タイム』(2011年)のように、社会を反映したようなテーマを見いだすことができる。
まずは、あらすじ。宇宙飛行士になることを夢見るヴィンセント(イーサン・ホーク)は「不適正者」の遺伝子のために希望のない生活を送っていたが、闇業者の手配で、事故のSえいで身体障害者となった優秀な「適正者」の遺伝子を有するジェローム(ジュード・ロウ)として生きるための偽装の契約を結ぶ。ジェロームの遺伝子を借りてエリートの道を踏み出すことに成功したヴィンセントは、優秀な宇宙飛行施設である「ガタカ」に潜り込む。そんなとき、彼の正体に疑いを持っていた上司の殺人事件が発生する。
遺伝子によって運命が決定されるという世界という点では、人種差別の問題から語ることができるだろう。その意味で、イーサン・ホークが演じるヴィンセントの行為は、いわゆる「パッシング」と呼ばれるものだろう。この映画のサスペンス的な要素は、成りすましが露呈することの恐怖によってもたらされる部分が大きい。
また、この物語世界そのものの遺伝子による管理社会は、人間疎外が加速していく現代社会への批判と見ることができるだろう。同時に、データ管理社会への過信というものも批判的に描かれており、この映画の立ち位置は基本的にヒューマニズムにもとづいている。事実、殺人事件の捜査の家庭で露呈しそうになるヴィンセントのパッシング行為は、周囲の人々のシステムを超えた「愛」に支えられることになる。
映画自体はロマンチックで、かつセンチメンタルなものだが、さまざまな問題や細かい設定などは放置されている印象を受けるのだが、むしろそのことが、この映画の「完成度」の高さを保証しているという気もする。考えれば、この「不適正者」によって完全に分断された社会ということであれば、劣等とされる不適正者はおのずと消滅するのではないか、という気もする。この社会は不適正者は不適正者として性交渉による自然出産によって生態系を維持している共同体と、適正者たちが遺伝子操作で子孫を残す共同体によって、完全に分断されているのだろうか。そのうえで前者は後者の奴隷のような立ち位置で支配されているのだろうか? そうすると、社会のエッセンシャルワーカーとしての労働(たとえばインフラ部分を担うようなもの)は不適正者が担うことになり、ストライキなども多発しそうなものである。
そうした疑問を措くとして重要なことは、適正者として生まれたとしても、格差があるということであるだろう。たとえば、ジェロームはオリンピックに出場できるほどの優性遺伝子を持っている男性であり、そのために恵まれた生活を送っている。と同時に、事故による怪我により社会的な地位は下がってしまっている。ほかにも刑事の男やガタカで働く医師などは、適正者のなかでも身分は比較的低いものであるとみるべきだろう。この適正者社会のなかでも格差があるということになり、その意味で、現実の私たちが暮らしている世界は、一見すると適正者と不適正者がいる世界であると考えてしまうのだが、そうではなく、適正者たちしかいない(と思い込んでいる)世界なのである。
つまり、パッシングによって不適正者のヴィンセントが適正者たちの社会に入り込むことは、彼ら適正者たちにとって不適正者の存在はまったくの不可視の存在であるということを示しているということである。それはまさにラルフ・エリソンの小説のような「見えない人間」が存在するということであり、『ガタカ』が示すメッセージとは、私たちは無意識に「見えない人間」を見落としているということである。
本来であれば、不適正者たちや、適正者でありながら脱落したジェロームを救うべきなのは福祉である。『ガタカ』の世界には社会的な援助という概念が存在しない。だが、それは現実でも同様のことが起こりうる(起こりつつある)だということを警告しているのだ。
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