『デッド・ドント・ダイ』ゾンビ映画を「解体構築」する試み

『デッド・ドント・ダイ』
The Dead Don’t Die
2019年、アメリカ、ジム・ジャームッシュ監督

これまで『デッドマン』(1995年)で西部劇、『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』(2013年)でヴァンパイア映画というジャンルを「解体構築」してきたジム・ジャームッシュのゾンビ映画とあって、やはり一筋縄にはいかない。とはいえ、結論からいうと優れたゾンビ映画になっているとは言い難いのだが、愛すべきコメディとしての魅力に溢れている作品でもある。

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物語の舞台は、警察官が3人しかいない田舎町センタービル。あるとき動物たちが異常行動を取り始めるという原因不明の異常事態が発生し、やがて墓地に埋葬されていた死体がゾンビとなって復活。町全体にゾンビが跋扈する惨憺たる状況になってしまう。ビル・マーレイをはじめ、アダム・ドライヴァーやティルダ・スウィントンなどのジム・ジャームッシュ作品に出演してきた顔ぶれが揃っており、これまでのジャームッシュ作品を愛してきたファンには喜ばしいキャスティングだろう。

コメディの部分を担っているのは、メル・ブルックスばりの自己言及的なギャグの数々である。たとえば警察官のビル・マーレイとアダム・ドライヴァーがパトロールカーに乗っているときに、カーステレオから映画の主題歌である「デッド・ドント・ダイ」が流れる場面。マーレイが「なんだこの曲は?」と聞くと、ドライヴァーがタイトルを答える。するとマーレイは「なんで知ってる?」と重ねて、ドライヴァーが「この映画の主題歌だからさ」と返すところ。あるいは終盤近く、ゾンビに街に溢れてしまったときにドライヴァーが「スクリプトで読んだからこうなるのを知っていた」と口にしたりするなど、ドライヴァーはどこか終始、物語の外側にいるような掴みどころがない達観したキャラクターである。

しばしばホラー映画やゾンビ映画といったジャンル映画では社会風刺のようなことが含まれるものだが、この映画も登場するゾンビという存在を現代人への警鐘としても解釈できる。街を埋め尽くすゾンビたちは生前の物欲に従うという行動原則があり、コーヒー・ゾンビ、WiFiゾンビ、ギター・ゾンビ、シャルドネ・ゾンビなど、現代を生きる私たちを写した鏡なのだといえる。もちろん痛切な風刺となっているわけではなく、ギャグとして笑えるというものだ。

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あるいは『パターソン』(2016年)のように街を愛する映画として見ることもできるだろう。そもそもセンタービルには警察官が3人しかおらず、アメリカのほかの地域とは地続きの世界とも思われない閉鎖的な雰囲気もある。この町の奇妙な住人たちは愛すべきキャラクターでばかりである。とはいえティルダ・スウィントンが日本刀を振り回す除霊師を演じているなど、『ゴースト・ドッグ』(1999年)でも披露したようなジャームッシュの日本趣味については好みが分かれそうなところではある。

ともあれ、先に述べたようにゾンビ映画として見るぶんには新味がないかもしれない。個人的にはこのジャンルに思い入れも知識もないのでコメディとして面白く鑑賞したが、ジャンル映画としての刷新を求めるとなると物足りないだろう。というか、そもそもジャームッシュにゾンビ映画に対する愛があるのか、というのも疑問である。むしろ『デッド・ドント・ダイ』というストレートなタイトルからして新たなゾンビ映画を作ろうというよりは、パスティーシュを目指したような趣もある。つまりはゾンビ映画に真っ向から挑戦したというよりは、このジャンルを「解体構築」してみせようとした「ポストモダン」な映画なのかもしれない。

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