『ブロンド』賛否を呼ぶ理由はどこにあるのか?

『ブロンド』
2022年、アンドリュー・ドミニク監督

原作はジョイス・キャロル・オーツによる小説で、マリリン・モンローの伝記映画というよりは、彼女の生涯をもとにしたフィクションというべきものだろう。評判に違わず、不愉快な部分も多く含んでいる感じではあるのだが、いわゆる論争を生む問題作といったものでもないような気がする。

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映画はゆるやかな時系列に沿いながらも、基本的にはマリリン・モンローことノーマ・ジーンの苦悩を断片的なイメージとして繋いでいく構成である。ダイアナ妃が過ごしたクリスマス休暇の3日間を題材にした『スペンサー ダイアナの決意』もそうだが、すでに広く知られたセレブリティの人生を普通の伝記映画として描くことは、映画作家としてはあまり魅力あることではないのだろう。それは「寓話」ともいべき、象徴的なイメージにも満ちたものになる。

ハリウッドの権力者たちからの性暴力、エドワード・G・ロビンソンとチャールズ・チャップリンの息子との三角関係、繰り返される結婚生活と離婚、中絶や流産、そして大統領との逢瀬などが描かれるなか、そこではマリリンがいかに苦しんだかという問いが、自殺にいたるまで貫かれる。映像も白黒からカラーへと自由に行き来し、スタイルも頻繁に変化する。ストーリーの部分での問題は、精神に失調をきたした母親との別離や、顔も知らない父親への愛の渇望というマリリンの不幸な人生に原初的な理由を見出す精神分析のアプローチだろう。この映画が3時間近い尺で、プロットも断絶的に繋がれたコラージュのような印象を与える一方で、そこまで難解ではなく、むしろ凡庸な感じすらある。そこではマリリンの複雑な内面の葛藤がすべて幼少期のトラウマに回収されてしまう。

たしかに中絶を強要されたり、嘔吐したり、出血したりするマリリンを演じるアナ・デ・アルマスの演技は悲痛で、作り手に不愉快さも感じるが、描写としてはそこまでではない。個人的には、同じジョイス・キャロル・オーツ原作の『2重螺旋の恋人』の描写を思い出したりした。

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本作が賛否両論とされているのは、ほかにもあるだろう。マリリン・モンローは男性中心的なハリウッドという世界で犠牲者となったことが描かれるわけだが、そうしたフェミニズムの視点からは看過できない描写がある。それはマリリンが妊娠した胎児と会話する場面で、ここで中絶させられることを拒否するセリフがあてられている。中絶への拒否感を胎児の空想的なセリフとして語らせるのは、女性の権利を認めるべきだという立場からすれば憤慨ものだ。より卑近な例でいえば、ペットの猫の写真に「飼ってくれて嬉しいニャ」と吹き出しをつけるようなものである。

ともあれ、中絶が彼女にとって苦痛なものだったのは、彼女が母親になりたいという主体性を蹂躙するものだからであり、ここではマリリンの口から言わせるだけで十分だったはずだ。ハリウッドの重鎮との望まぬ性交の結果に宿った生命であれば、彼女は出産することを望んだかどうか? その意味で、『ブロンド』が描こうとしているテーマはややブレている。もちろん、そのアンビバレンスこそがマリリンの本質なのだというのが、作り手たちの主張なのかもしれないが。

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