『アフター・ヤン』
2021年、コゴナダ監督
人間型ロボットが一般家庭に普及した近未来、茶葉の販売店を経営するジェイクは、妻のカイラと中国系の養女ミカ、ロボットのヤンとともに暮らしている。あるとき、ヤンが故障して突然動かなくなってしまい、ジェイクは彼を修理しようとするなかで、ヤンの体内に定期的に動画を記録する特殊なパーツが組み込まれていることを知る……。壊れたAIの内部に保存されていた映像に、思わぬ光景が記録されている、という感動的なストーリーを予感させるが、それ以上に興味深い要素が盛り込まれている。
まず、AIロボットにヤンが生身の人間とほぼ同等の身体を持っているということ。そもそもジャスティン・H・ミンという俳優がヤンを演じている時点で、その身体はロボットではありえないのだが、設定としてもロボットは魂を失うと腐敗するということになっている。そのために、ヤンを純然たるAIロボットとして認識するのは難しく、いかにもロボット然としたAIに人間的な感性を見出して感動するという甘い展開も誘われない。AIに人間と同等の(あるいはそれ以上の)感情を見出して感動するというのは、情動的なシンギュラリティへの誘惑ともいうべきものだが、本作はその誘惑には抑制的である。
その一方で、ヤンが人間そっくり(というか役者の身体そのものなのだが)ということで、擬似的な家族の物語になっている。コリン・ファレルとジョディ・ターナー=スミスの夫婦の娘は中国系の養子であり、ヤンは養子用のロボットとして作られたものである。ヤンは兄としての役割を与えられており、彼らは血の繋がらない家族である。ヤンの故障は兄の“死”を意味するわけであり、家族の一人の契機に知られざる秘密が明らかになる、という物語でもある。だが、ここでAIロボットであるという設定があることで、その家族の物語も感情移入しやすいものとなっている。現代の物語で、家族を描くために擬似家族を設定したり、恋愛を描くために契約結婚や恋人のふりをする男女といったストーリーが準備されることも、これと同じ理由であるだろう。
そう考えると、ケン・リュウの「紙の動物園」なんかを思い出したりもする。この小説も、母と息子の感動的なストーリーにSFの要素をプラスすることで全体の印象が刷新されるのだ。そして、アメリカに住む中国系の物語ということも共通点と言えるだろう。
『アフター・ヤン』は全体を通じて静謐な雰囲気で統一されており、静かな感動を呼ぶ。もう少しドラマチックにしようと思えばできるのだろうが、そこに抑制を効かせたのは正解だったろうと思う。
余談だが、AIに残されたプログラムをめぐる感動的な秘密やシンギュラリティの主題は、アニメーション映画『アイの歌声を聴かせて』というのがあるのだが、エンタメ的なおもしろさでいえば、こちらの作品に軍配が上がるのではないだろうか。
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