『ザ・ファイブ・ブラッズ』
Da 5 Bloods
2020年、アメリカ、 スパイク・リー監督
結論からいうと、かなりおもしろく鑑賞した。スパイク・リーの作品らしく、エンターテインメントな物語の枠組みをしっかりと保持したまま、人種や社会問題を織り込んでいくという、すぐれたバランス感覚のとれた作品となっている。ますます鋭敏な作品づくりを続ける映画作家の本領発揮といった感もあり、スパイク・リーのフィルモグラフィーの最高傑作といってもよいくらいだ。
あらすじはこうである。ベトナム戦争からの帰還兵であるポール(デルロイ・リンドー)、エディ(ノーム・ルイス)、オーティス(クラーク・ピータース)、メルヴィン(イザイア・ウィットロック・Jr)の4人は、かつて班長として指揮をとったノーマン(チャドウィック・ボーズマン)の遺骨と埋蔵金を回収すべく、再びベトナムを訪れる。そこに父親を心配したポールの息子デヴィッド(ジョナサン・メジャース)も加わり、過酷なジャングルへと向かう。
ストーリーからすると、埋蔵金をめぐる群像劇を思わせるが、もちろんスパイク・リー作品とあっては一筋縄にはいかない。まずは冒頭から、モハメド・アリが「アメリカのために飢えた人や有色人種を撃つのは良心が許さない」という言葉をはじめとする、歴史的な発言や出来事がさまざまなフッテージを引用して語られる。ティック・クアン・ドックの焼身自殺、シカゴ民主党大会での暴動、オリンピック抗議として示されたブラックパワー・サリュートのパフォーマンス、ケント州立大学銃撃事件とジャクソン州立大乱射事件、人影で埋め尽くされたボートピープル、そしてエディ・アダムスの「サイゴンでの処刑」やファン・ティー・キムフックを撮影した「戦争の恐怖」といった写真など。次々に映し出されていく。
ニール・アームストロングが「人類にとっての偉大な飛躍」を語った裏で繰り返されるアメリカの負の連鎖が断片的に示されることになる。そのなかのある演説では、従軍した黒人は南北戦争では15万人、第二次世界大戦では85万人、だが得たのは警察の暴力だけだ、という言葉が登場する。ここで想起するのは、今も高まり続けるブラック・ライヴズ・マター(Black Lives Matter、通称BLM)など運動のことだが、BLMは映画の終わりに登場する。『ザ・ファイブ・ブラッズ』では、半世紀が経過した戦争の舞台であるベトナムを再び訪れるという設定を用いて、こうした繰り返される歴史を改めて突きつけるのである。
そして、ドキュメンタリー映画のような導入から一転、1975年のサイゴン陥落からおよそ半世紀、現在のホーチミン市ベトナムへと場面は切り替わる。高級ホテルのロビーらしき場所で、白髪混じりのヒゲを蓄えたメルヴィルがパッションフルーツのジュースを飲んでいる。そこにエディ、オーティス、メルヴィンが現れて再開の挨拶を交わす。彼ら退役軍人がこの地を訪れるのはベトナム戦争以来のことである。そして、5人目のノーマンは遺された古写真のなかにしかいないことが明らかになる。
その後、4人はバーに行くのだが、その店は「Apocalypse Now」(つまり『地獄の黙示録』)という名前である(『ザ・ファイブ・ブラッズ』では彼らを乗せた船がジャングルへと向かうときにワーグナーの「ワルキューレの騎行」がかかるなど、『地獄の黙示録』が重要なモチーフの一つとなっている)。彼らがアメリカでの暮らしぶりを話していると、片足のないベトナム人の子供が物乞いに来たことから、当時の思い出話に花が咲く。帰還兵は「赤ん坊殺し」と蔑まれ、嫌われただけで、生活はよくならなかったのだという。
ポールは移民は追い出して壁を築くべきだ、黒人は目覚めるべきだと語る。そして「“仮病”大統領」(トランプのこと)に投票したのか? と尋ねられると、「搾取されたくない」と訴えるポールに対し、仲間たちは昔は「ブラザー同士、連帯してただろ。ともに政府と戦い、ジャングルで兄弟になっただろ?」と慰め、再び友情を分かりあうのだった。そこにベトナム人ガイドがやって来て、彼らはノーマンの遺骨を探すべくジャングルに入ろうとしていることがわかる。
ホーチミン市にはマクドナルドやケンタッキーが軒を並べ、半世紀前の光景とは別世界となっていた。バーでの雰囲気や空気感など、現在のベトナムの状況については作り手たちは十分に取材を重ねたのだろうという印象を受ける。4人は元ベトコンから酒の差し入れ受け、ガイドは「アメリカ戦争」と自然に口にする。彼らが外に出ると、大きな爆竹の音が響く。先ほどの少年が爆竹を仕掛けて待っていたのだ。
『ザ・ファイブ・ブラッズ』は、現在の彼らの金塊探しと、ベトナム戦争当時を振り返る回想場面が織り交ぜられながら進んでいく。過去の場面は16ミリフィルムでスタンダードサイズによって撮影されている。4人を演じるキャストはそのまま若き日の兵士を演じている。この劇中映画は空撮なども用いて、本格的な戦争映画のように撮影されている。夕日を背に手前に近づいて来るヘリコプターのシルエットなど、『地獄の黙示録』以来のベトナム戦争映画が強く意識されている(『ランボー』は18歳の若さで命を落とし、“ブラザー”として最初の名誉勲章を受けたミルトン・オリーブと比較され、ハリウッド製偽ベトナム映画とバカにされている)。
この後の回想を通じて観客は、ノーマンら5人が戦場でCIAの輸送機に残された大量の金塊を発見することを知る。そして、ノーマンは国のために最初に死んだのは黒人だ、1770年のボストン虐殺事件を知っているか? と語り、建国前から血を流した黒人を裏切り続けた国は借りがある、金塊は補償金だ、と鼓舞する。金塊は帰還できなかった黒人兵士のために使うよう語る。だが、数週間後に戻ると爆撃で目印が消えていたのだった。それから半年、土砂崩れにより機の尾翼らしきものが現れたことで、アメリカに帰還した4人は再びベトナムを訪れるのだが、ここでノーマンは「金は戦争だ、戦争は金だ」と口にする。
ノーマンは4人にとってキング牧師であり、マルコムXのような人物なのだ。アメリカにアフリカから黒人が連れてこられたときから、何一つ変わることのなかったと教え、白人を殺しても何にもならない、という。戦場のラジオでキング牧師が殺されたことを知った彼らを冷静に落ち着かせるのはノーマンだ。捜査と称して白人警官が黒人に暴力を振るうのを見たと話し、仲間に信念や指針を与え、当時は知られていなかった黒人の歴史や反共宣伝の嘘を教える。だが、現実ではノーマンの遺言から半年、アメリカでは何も変わらない、血に血を重ねる負のスパイラルを断ち切れずにいることを誰もが知っている。こうした視点から眺めるベトナム戦争は『7月4日に生まれて』(1989年)では決して登場しない戦場の姿である。
宗教にも似た感情でノーマンを尊敬していたポールはPTSDで毎晩、ノーマンが登場する悪夢も見るのだ(この悪夢の真相は映画の終わりに明らかになる)。少しのことでもキレやすくなっており、鶏を売りつけようとするベトナム人と口論になったときには、彼を「グーク」(gook、ベトナム人やアジア系に対する差別的呼称)と呼んでしまう。こうしたいくつもの設定には、過去をいかにして断ち切り、乗り越えていくのか? というメッセージが込められている。そのため、ポールの息子デヴィッドが5人目として登場することには意味がある。
はたまたオーティスはかつて関係を持った娼婦との間に娘がいる。つまりは敵との間にできた私生児であり、そのために彼女は周囲の人間に蔑まれ、村八分にされた過去がある。また、金塊を安全に現金に処理するためにフランス人のデローシュ(ジャン・レノ)を頼るが、その際に引き合いに出されるのは第二次世界大戦である。デローシュに対して「ノルマンディー上陸作戦でナチを大勢殺した借りがある」と語るとき、さまざまな戦争や殺戮の記憶が重ねられていくのである。
また、ジャングルへ向かう途中、戦争時代の地雷や爆弾を探して処理するための団体に所属するフランス人グループ3人と出会うが、いうなれば彼らは『地獄の黙示録』でのフランス人入植者たちの次の世代であり、デヴィッドと同世代だ。団体の代表であるヘディ(メラニー・ティエリー)は「戦争に因縁のある家系」の生まれで、ゴム園の経営や米市場により財を成したことで裕福な暮らしをしてきた。ベトナムではいまだに死者を出し続けているなか、彼女はベトナム人を搾取してきた過去の罪悪感に悩む、ブルジョアのよくあるパターンだと自虐する。
このヘディのエピソードをはじめ、この映画は金塊探しのみが主眼ではないこと、ブラザーフッドを描くだけのものでももちろんないことがわかるだろう。その背後にある、繰り返される憎しみの連鎖を断ち切るための「希望」を描く映画である。
だが、金塊を同胞のために黒人解放のために使うべきだと主張するエディに対して、仲間たちは自分たちのために使ってよいはずだと主張する。そこに金塊を狙うベトナム人が現れるなどするのだが、かつての戦争を繰り返すかのような銃撃戦となってしまう。つまりはノーマンの「金は戦争だ、戦争は金だ」という言葉通りになってしまう。物語は金塊をめぐる群像劇を描きながら、この血に血を重ねる行為の愚かさを浮かび上がらせるという、巧みな構造が用意されている。物語はサスペンスフルな展開を作りながら社会的な事象へ目配せする、抑制の効いた作りになっており、スパイク・リーの最高傑作といってもよいだろう。
ストーリーの多くを語るべきではないが、映画は希望を持って終わる、ということだけは明かしておこう。この映画では、過去の負の遺産というべき金塊をいかに引き受け、未来へといかせるのかという解答が鮮やかに示されて終わる。劇中で仲間の口を通して語られるノーマンの「Do right, just to get it right」(正しいことをしろ)というセリフは、スパイク・リーの『ドゥ・ザ・ライト・シング』(1989年)から変わらないメッセージである。一時期、感性が時代から取り残されていると批判されることもあった映画作家は、時代がやっと追いついたことで、再び最先端を走り続けていることを証明してみせたのである。
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